2010-02

フォークの神様 補足

「Don't Think twice」は、
神様(オイラ)が、去っていくという話。


神の視点というのは、
イエスの辻説法のようなという意味。


今夜、鶏が鳴くまえに、わたしを三度、知らないというだろう。
(鶏が三度鳴くという意訳は、ぼくの勘違いだったので訂正します)
I assure you, this night before a rooster crows, you will deny Me three times

フォークの神様

「Don't Think Twice」の詞の解釈について、常々考えて続けていたのだが、ついにようやく、合点のいく考えに至った。

これは女々しい男の独白というものではない。

「神様」の目線である。
神の言葉である。

ディランが、フォークの神様と言われていたのはなぜか。。

一枚目のアルバムがぱっとしなかった彼は、神を演じることにした。
演じているうちに、本当に神になった。
あるいは最初から、神そのものだったのか。

「Don't Think Twice」だけでなく、あの曲も、あの曲も、そしてあの曲も、そういうことならしっくりくる、納得がいく。
だからフォークの神様なんだ。



いまさらお祈りしたって無駄さ
いままでもしてこなかったし、
これからもどうせしやしないんだろう

夜明けに鶏が三度なくとき
オイラがまどからでていくのがみえるだろうよ
自業自得ってやつさ

終わったことは
しょうがない
これでいいんだよ


いまさらキャンドルに
火を灯したって無駄さ
オイラはもう
明かりの届かないところにいるんだよ

オイラが心変わりするまえに
きみもなんかやりようもあったろうに
あんまりお話することも
なかったしね

終わったことは
しょうがない
これでいいんだよ


オイラの名前を唱えたって無駄さ
もう聞くことはできないんだよ

オイラ歩きながら考えてるんだ
ずいぶん前に、
ある女を愛したなあ、
いやあれはこどもだったんだっけ
いろいろ気にかけてやってるんだけど、
奴はオイラの
魂までも要求しやがった

終わったことは
しょうがない
これでいいんだよ


オイラひとりで
とぼとぼ歩いているよ
居場所は教えられないんだけど

グッドバイだと
いいお別れみたいだから
じゃあな、とだけ言っとくよ

オイラを邪険に扱っただなんて
言うつもりもないし
もう気にしてないさ
まったく、時間の無駄というやつさ

終わったことは
しょうがない
これでいいんだよ



俺たちの救世主、代弁者、若きリーダー、アイドル。

ユダなどと罵られたのは、エレキとかロックとかいうことではなく、詞の変化のせいだったんだなあ。

充電

睡眠は充電に似ている。というか、睡眠は充電である。
常々考えていた、「地球上の万物は、地球の重力に養われている」というぼくの説のつじつまが、ここですこし合ってくる。

おそらく、じっと静止していることで重力パワーが充電される。
睡眠状態、無意識状態だとさらに強力に充電される。
(パワーチャージというべきだろうがここは充電とする。)
YOGAのシャバアーサナも、まさにそういうことなんだろう。

で、ぼくが近年、睡眠時間が短くなってやたら早起きになっているのは、おそらく、充電用の内蔵電池の容量が小さくなってきているからだ。
一般に、年寄りが早起きなのもそういうことだ。
こまめな充電が必要だ。シエスタは欠かせない。

そしてやがて、機種変更の時期がやってくるのだろう。おそかれはやかれ、だれにでも。

ダジャレーヌーボー解禁

気をつけよう、電気つけっパナソニック。

こういうのはいったいどうなんでしょうか。

いかがなものかとも思いますが、おもしろいのでやってみました。

わしのめしレシピ メモ

とりあえずメモ。

完成品からたどっていくのではなく、材料から紡ぎ上げていくというか。

ひとつのおかずをつくるとき、調理器具を選ぶこと、食材を選ぶこと、調理方法を選ぶこと、そして調味料を選ぶことの大きく分けて4つ、そしてそれぞれがさらにいくつかの組み合わせになったりするので、それはそれは膨大な組み合わせから、ひとつのおかずができあがるということになる。

めし(しろめし、玄米)と、おかず。
めしのうえにおかずをのせれば、それは丼(どんぶり)で、基本、丼である。

それぞれの調理器具によって、調理方法はいくつかずつ決まってくる。

テフロン加工のたまごやき器。
簡単な、少量の炒め物、ソテー、ウォーターソテー、あともちろんたまごやき。
油をひいて炒める、焼く、油をひかないで焼く、その後少し油を足してさらに火を通す。焦げ目つける、つけない。ひたひたの水で茹で、水気がなくなるまで茹で、あと炒める。茹で→ウォーターソテー。

中華鍋。
大量の炒め物。野菜炒め、焼きめしなど。
揚げ物。1センチくらいの深さの油、鍋をかたむけたりして。油は一回で使い切る。(紙に吸わせて捨てる)

無水鍋 小 中(ぴっちり閉まる蓋)
炒め。
炒め→煮。
炒め→煮→煮詰め。
炒め→煮→煮詰め→煮切り。
煮→煮詰め。
煮→煮詰め→煮切り。


蒸し。(蒸し器とあわせて)
茹で。
無水茹で。

デロンギコンベクションオーブン
オーブントースターでも可。
オーブン焼き(グリル焼き)。
揚げ物。
オーブン焼き、オイルスプレーしてさらに焼く。

調理器具なし。
塩揉み、酢の物、浅漬け、サラダ、あるいはそのままとか。ボウルはつかうが、火はつかわない。

炊飯器 めし用。毎日つかう。
圧力鍋 あまりつかわない。
無水鍋 大
おでんのとき、うどんやパスタ茹でるときとかにつかう。

食材。
野菜(いろいろ)。
乾物(かつおぶし、高野豆腐、麩、わかめ、昆布、干し椎茸、切り干し大根、豆など)。
魚貝類、肉類、加工品

調味料
自然塩、岩塩、薄口しょうゆ、濃口しょうゆ、本みりん、味の母、酒、ウスターソース、トンカツソース、ケチャップ、マヨネーズ。
ごまドレッシング、ピエトロドレッシング。
黒ごま、白ごま、黒胡椒、カレー粉、ガラムマサラ、クミン、カルダモン、ターメリック、オールスパイス、イタリアンハーブミックス。粉唐辛子、コーレーグース。
ごま油、太白ごま油、エクストラバージンオリーブオイル、菜種油。
オイスターソース、豆板醤。

210524覚え書き、調理方法 画期的なレシピ本

日々の弁当をつくるにあたって、食材の買い物の際になになにをつくるためになにとなにを買うということはあまりなく、旬のものとか、売り出しで安くなっているものとか、野菜なら定番のじゃがいも、人参、たまねぎ、ねぎ、あと葉もの、みたいな買い方をするのが日常である。
毎朝の弁当づくりは、いま家にあるものでできるものをつくっているという感じである。
つくったものを記録するときに、「なんとかのなんとか」とすっきりと書けないなあとずっと感じていたのだが、この原因は、料理に対するアプローチの違い(おおげさ)だということに気づいた。
「なんとかのなんとか」(舌びらめのムニエルとかそういうこと)というのと、「なにとなにをどないした」(キャベツとにんじんを炒めてあと水入れて調味して煮て、さらに煮切ったとかそういうこと)の違いというか。
そしてわし自身もそのことがわかっていなかったゆえに、「なんとかの煮物」とか「なんとかの炒め煮」とか書いてても、なんか腑に落ちない、しっくりしない感じがしていたのだろう(煮物といっても、先に炒めたり、いろいろなパターンがあるし、味付けも塩煮といっても塩だけではないとか、いろいろなバリエーションがあるのだ)。
世のレシピ本というのは、「なんとか(料理名)のつくりかた」というのがほとんどで、休日に「きょうのばんめしはなになににしよう」というときは役に立つが、まいにちの弁当には、以上のような意味でいうとあまり役にたたない。
そこで、調理方法を分類していくことで、あらゆる食材にフレキシブルに対応できる、より実践的な記録になるのではないか、調理方法主体のレシピ本のようなものができるのではないか、と思いついたのである。
つづく。

お金を売る、お金を買う。

お金を借りると利子を払わなければいけない。
お金を貸すと、また、預けると、利子をとることができる。
と、ふつうあたりまえのように思っているが、
ふと、今日、気づいた。

100万円を貸すということは、100万円を105万円で売るということだとも言える。
100万円を105万円でキャッシュで買うやつはいないが、分割払いなら買い手はいる。商品がお金、お金が商品、ということである。
ということは100万円の価値は100万円と決まっているわけではなく、増えたり、減ったりするものだということである。
いまごろ気づいたのかということだが、こういうようなことが、いわゆる、「金融」の原点になっているのだな、ということ。

愛用の弁当袋

弁当袋にずっと使っている、ぼろぼろのトートバッグのちっちゃいのがある。
ずいぶん前に買った、吉田カバンのコットンのトートバッグのサブバッグみたいなやつで、本体のほうは、これもぼろぼろになって、だいぶ前に役目を終え、捨てられてしまった。サブのほうだけが残っている。
このあいだ、なんかのときにその袋のことを「愛用の弁当袋」と表現したことがあって、そこでふと考えたのが、愛用とか愛とかいうことで、まさに、この弁当袋がそうだ、と。
特別に気に入っているわけでもなく、水筒をいれたときの収まり具合などどっちかというと気にいらないところもあり、でもまあなんとなく使っているという感じである。で、すごく気に入っているのを愛用というと思っていたが、こういうのを愛用というのではないか、と。週に5日もいっしょにいるというのはすごいことである。
そう思えば、ふだんいっしょにいる、枕や布団や自転車やパソコンや、その他もろもろ全部、そうではないか。気に入らないところも多々あるのに。
で、愛というのもそういうことではないかと思ったわけで、以前から「愛」ということばには少し疑問をもっていたのだが、人間に対しても何に対しても、好きもきらいもありありで、いっしょにいるとか共有するとか、そういうのを愛といってもいいのかな、と。
ラブとかピースとか言っててもこうしてどこかで戦いは起こっていて、ラブとかピースとか言うときに、憎しみや戦争の反対のところにラブとかピースとかの意味を置くのではなく、もうちょっとニュートラルな意味合いのところにおけば、すこしは変わるか、な。などと思ったり。

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マキタカオ

Author:マキタカオ
45才 京都市左京区在住 吟遊詩人 料理人 フォークシンガー 哲学者 バカな平和主義者 グラフィックデザイナー 整体師  革職人

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